我がふるさと飾磨

いかで麿 播磨の守の童して 飾麿に染むるかちの衣着む
梁塵秘抄
 
いとせめて 恋しき時は播磨なる 飾磨に染むるかちよりぞくる
金葉和歌集

播磨なる しかまに染むるあなかちに 人を恋しとおもうころかな
曾禰好忠 詞花和歌集

はりまなる しかまの里にほすあいの いつかおもいの色に出づべき
夫木和歌抄

たのまずは飾磨の褐の色を見よあひそめてこそ深くなるなれ」
右大臣家百首

 いきなり五首の和歌に戸惑われた方もあるかも知れない。これら多くの古歌が表す如く、
古代から中世に於いての我が町飾磨は藍染めの一大産地だった。
 藍(インディゴ)の成分はその水溶液に褐色を呈し、染め上げた布は酸化とともに乾燥
して行くにつれ、鮮やかな藍色に変化して行くがゆえに褐染め(かちぞめ)と呼ばれたが、
残念ながら中世以降、飾磨の褐染めは廃れてしまった。

純粋な紺色にやや褐色味を帯びた「飾磨紺」
 現代では徳島県に「藍住」と言う地名が見える。これは17世紀前半に時の支配者で
ある蜂須賀家政が飾磨から技術者を招聘し、藍の栽培、製造を行い発展させたもので、
18世紀半ばには「藍と言えば阿波」とまで言われるほどに全国市場を支配して行った。
 古歌には「藍」と「愛」、また「褐」と「勝」を掛け合わせたものは数多見られるが、
戦国武将にとっても「かち色染」と縁起の良いものとして尊ばれたと言う。

 また飾磨は室津と共に瀬戸内海交通の要所としても最重要視され、書写山円教寺旧記
によると長保4年、花山法皇が書写山に行幸された際「飾磨津湊」で下船され、至近で
ある知宝寺に逗留されたことから、この辺り一帯を御幸(ごこう)と呼ぶようになった。
 この65代花山天皇と言うのがこれまたとんでもない人物で(不敬ですんませんw)
在位こそ2年足らずの御門であったにもかかわらず、即位前には高御座に美しい女官を
引っ張りこみ、その中で抜根したとか。もとよりこれは実話ではないだろうが、御門の
人物像が伺える話ではあろう。また同じ時期に母と娘の双方を妾とし、いずれにも一人
ずつの男子を成している。まぁコレ、親子丼の元祖かもね。(ちなみに国内での「車内
抜根」の元祖は伊藤博文らしい・・・って蛇足ですんません😝)
 晩年には絵画・和歌など多岐に渡る芸術的才能を生かし、独自な発想に基づく創造は
人々の篤い尊敬を集めた。和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し『拾遺和歌集
を親撰している。
 先に「とんでもない人物」とは書いたが、実は「とんでもない天才」であったのだ。
皇族には斯様な人物は多いが、実は近親交配の影響が少なからず存在するのではないか
と考える。
 播磨国風土記に「『餝磨』という名がついたのは、大三間津日子命(オホミマツヒメ
ノミコト[孝昭天皇]
)がこの地に滞在されていたとき大きな鹿が鳴くのを聞き、命が
『荘鹿(しか)も鳴くかも』との仰せにより餝磨と言う名がついた。(意訳)」とある。
さらに牝鹿は東、牡鹿は南に鎮座する神となりそれぞれ妻鹿男鹿なる地名を得、その
間を「しかま」と呼ぶようになった。

 現代でこそ姫路市の一部地域に甘んじてはゐるが、かつては飾磨郡と言う広大な地域
であり、昭和17年2月11日の紀元節に飾磨市として市政が発足した。しかし戦後の
昭和21年3月、当時のGHQと姫路市長であった原惣兵衛らの陰謀に嵌まり姫路市へ
吸収合併され脆くも消滅してしまったわれらの飾磨市。姫路市への恨みは(個人的にw)
深い。

   飾磨市章
6年7月、住み慣れた神戸から姫路へ転居してきた(と言うか戻って来た)私は仇敵で
ある姫路市への納税を少しでも回避したいとの思いから、現在でも他都市へのふるさと
納税をせっせとやっている😛

(8.2.11記)

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