言霊と諱(忌み名、いみな)の世界

 我が国日本は諸外国と比較し、その特異な点が数多存在すると言う。就中「言霊
(ことだま)」は遥か万葉の昔から現代に至るまで日本人の心の奥底にしっかりと
定着しており、しかも大方の人が気付くことなくこれに支配されている。
 言霊とは古代から日本で信じられていた、と言うか知らぬ間に定着していた一種
のオカルトのようなものなのだが、人の口から発せられた言葉には霊力が存在し、
その言葉通りの事象が発生すると言うことが長い間信じられて来た。
 ある人が何か不吉なと言うか先行きの暗い話、言葉を発したとする。それに対し
周囲の人々の反応は・・・?大抵「縁起でもない事を言うな。」ではないか?更に
次に掲げるのは具体的な例としての話になろう。

A氏「俺、明日有給で(仕事サボって)ゴルフなんだよ。」
B氏「何だそれ!?イイご身分じゃないか。見てろ、明日は大雨になるぞ。」
この会話はB氏のやっかみであることには何方も違和感はないと思う。そしてその
ゴルフ当日実際に大雨が降ったとする。さらにその翌日、会社では・・・
A氏「それ見ろ、お前があんなこと言うから雨になったじゃないか!罰として今度
   一杯奢れよ。」
B氏「あぁ、ヤッパリな。雨の中でのラウンドお疲れさん。」

 このA氏の発した言葉に対し不可解なことに殆どの日本人は違和感を感じない。
そのゴルフ当日に大雨になったこととB氏の「大雨になるぞ。」との間にはなんの
因果関係があるはずもないのだが、これに因るとB氏が「雨が降る」と言ったため
実際に雨が降ったことになってしまっている。まさにB氏が「縁起でもないこと」
「起こって欲しくないこと」を言葉として発したからであり、冷静なって考えても
みれば罰など受け、まして一杯奢らされる筋合いなどない。しかしこの国では人が
ある事象を言葉として発してしまうとそれが実際に起こる(らしい)のだ。神職が
「栄えたまえ」と唱えれば栄えるし「清めたまえ」なら汚れが払われる。
 逆に「起こってほしくない事象」に対しては、これを狩り抹殺すれば起こらない。
故に「忌み言葉」などと言うものが生まれるのだ。極端な例かも知れないが「戦争」
などと言う言葉はそれが存在するからこそ起こる。だからそれを抹殺してしまい、
口に出さなければその事象は起こらない。只管「平和々々」とさえ唱えてさえいれば
平和が維持できると無意識に思い込んでいる誠におめでたい国家でもある。 
 まさに「(気づかぬ間に)言葉に操られている」と言う事実を理解している人は
殆ど居ない・・・さらに「操る」と言えば人の名前もこの事象に通じるものがある。

 明治維新を迎え諸外国、特に英米の習慣である親しい間柄ではファーストネーム
で呼び合うという習慣が徐々に定着し、現在の日本人も他人から本名(姓ではなく
名)を呼ばれる事になんの抵抗もなく徐々に慣れていった。ではその時代以前では
どうだったのか?と言えば身分のある人物であれば親と主君以外はその本名(諱、
忌み名)を知る人は配偶者であってもほぼ居らず、まして人の諱を(口に出して)
呼ぶことはそれほどとんでもない非常識なことだったのだ。
 ただその理由は明白で、それは先述の言霊に通じている。人の口から発せられた
名前(忌み名)はそれ自体が魂を持っていると言うことであり、ゆえに他人に本名
を知られてしまうと自由に操られてしまうと考えたのである。
 昔から高位家系の系図には女性の諱はほぼ書かれず「女」とだけしか書かれない
ことが多かったが、これは女性差別でもなんでもない。呪詛の対象になるからだ。
 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の登場する長谷川平蔵宣以(のぶため)は18
世紀後半に活躍した実在の人物でもあるが、彼の場合は「平蔵」が字(あざな)で
「宣以」が諱となる。普通の人であれば「長谷川様」「御殿様」(火付盗賊改の)
「長官(おかしら)」であり、ごく親しい人であっても「平蔵さん」、「平さん」
と呼び、「のぶためさん」とは(知っていたとしても)決して呼ばない。
 何処かの国営放送大河ドラマで静御前の「義経様ぁ」などと言う科白を耳にして
しまうと私はいっぺんに醒める。木下藤吉郎が「信長様」などと口にしていならば
「この無礼者!」と、おそらくは手打ちになってしまい後の豊臣秀吉は存在し得な
かったかも?とさえ思ってしまう。

 妖怪退治に臨んだ英雄豪傑が「おのれぇ!出たな妖怪○○○○!!」と叫ぶ場面
はよく聞くが、これは名前を口にして呼ぶことで「お前の正体は判ったぞ」と言う
意味となり、正体を見破られてしまった妖怪は(得体が知れないからこその妖怪、
怪異であるがゆえに)その神通力を失ってしまうのである。それほどに諱とは重い
ものなのだ。

 万葉集の一番最初に登場する雄略天皇の御製「籠もよ御籠持ち掘串もよ 御掘串
持ちこの丘に菜摘ます児 家聞かな 名告らさね(以下略)」なんのことはない、
現代風に言えばナンパの歌なのだ。「名告らさね」即ちこの時代に本名を教えろと
言うことは「私のものになれ」に同等の意味となる。
 私の撮影は殆どの場合が野外撮影であり、これには怪我(虫、ウルシ他に因る)
アレルギーなど危険が常に伴う。それのお守りのため1日限りの掛捨て保険を掛け
ている。しかしこれには住所と生年月日、さらに本名が必要なのだが、どうしても
女性に本名を尋ねること(決して「私のものになれ」などと滅相もない)に罪悪感
を感じてしまうのだ。
 なんと言う古い人間なのかねぇ・・・

(6.3.13 記)
 

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