我が師匠のこと

 私には人生の師匠とも慕う方が存在する。もう20数年前に故人となられたが、
機関車乗り(現場では機関士のことを斯様に呼んでいた。機関助士は「罐焚き」)
であり旧海軍下士官であったこの方は未だに我が夢の中に出て来られ、叱咤激励
してくださるのだ。
 元々旧海軍と蒸気機関車に興味のあった私はその方とお近づきに成れてからは、
あらゆる質問を浴びせたが、師匠は嫌がる素振りひとつも見せず、一つ々々丁寧に
教えてくださったものだ。中でも海軍精神はその後の我が人格形成に大いに影響
したものであったと思う。
 Smart(手際良く柔軟な対処と素早い行動)Steady(着実) Silent(静粛)の
3S、(現代の3S活動の整理、整頓、清掃じゃないよ)また予定された事に対し
全員が配置完了状態で臨む5分前精神、さらに緊急事態の発生に備え、常にそれに
対応出来る心構えの出船精神などは今でもしっかりと心に刻まれている。とは言え
帝國海軍健在当時に生まれていたとしても私のポンコツアタマでは兵学校などへは
逆立ちしても入れていなかっただろう。
 この海軍精神は神戸生まれの我が母親からも結構影響を受けたように思う。本人
からの話では娘時代に海軍士官との付き合いがあったらしい。その方は南方戦線で
戦死されたそうなのだが、もしもご無事であったのなら(多分)今の私は存在して
いなかったことだろう。人の縁(えにし)とはかくも不思議なものである。
 幼き時代、当時走りであったステレオ(モチロン真空管式)でタンゴのレコード
を流し、父親をリードする姿は子供の眼から見ても「なんとまぁ、ハイカラな人や
なぁ・・・」との感は結構あったけどね。

 師匠の話に戻るが「海軍」「蒸気機関車」と我が二つの理想に完璧に当て嵌まる
方だった。此処からはエピソードを少し。

 昭和14年徴兵された際「ワシ、徴兵やのに海軍行くんか?」(当時罐焚きから
機関車乗りに昇進した師匠はボイラ技士等、手に職があった為ではないか?)空母
龍驤」に整備兵として着任。零戦(れいせん。ゼロせんじゃないよ。)の整備に
明け暮れていた。

 この龍驤と言う艦は如何にもトップヘビーで舵を切ればすぐに転覆しそうな外見で
あったが、船底の竜骨上にジャイロ・スタビライザー(巨大な地球ゴマのようなもの)
を搭載し、その安定性は優れたものであったらしい。荒れ狂う海上で「おい、急に
静かになったな。」「ああ、安定器回しだしたんだよ。」
 その後昭和17年春、龍驤からカビエンの地上勤務に転勤。「あと4ヶ月も龍驤に
居ったらワシ軍神やったなぁ。」とも。
 転勤してすぐのこと、当時の4艦隊司令長官であった井上成美中将に声を掛けられ
直々に酒を注いで貰った師匠は「ワシ等から見たら司令官なんて神さんみたいなモン
やがな。あぁ、これで何時戦死しても悔いはない。」と思ったそうで、当時の若者は
「お国に殉ずる」ことを当然のように考えていたが、戦後はGHQの徹底した政策に
より、現代では全く価値観の違った若者が多数を占めていることは周知の通りである。
 昭和18年夏頃にはトラック島(現チューク諸島)において、整備記録作成のため
零式三座水偵での試験飛行中のこと。搭乗員に「おい、あの大和の横の甲巡(当時は
重巡、軽巡ではなく甲巡、乙巡と呼称していた)見かけん型やが、新造艦かいな?」
と聞いたところ「なに言ぅてんねん(大和郡山出身の方だったそうです)あらぁ長門
やがな。」「へぇ~~、並んだら巡洋艦に見えるなぁ。」と言うような会話があった
そうだ。

(画像は「こまんたれぶ~」様のHPより拝借した。)

 機関車乗り時代でのこんな話・・・
 終戦直後の昭和23、4年頃のこと。大阪から急行列車をC53で牽引し姫路へ
向かう途中、終着直前の市川橋梁に差し掛かる辺りで若い罐焚き(師匠もまだ30歳
手前で若かった)が「真ん中のロッドから火が出てます!」との叫び。よく見れば
確かに出火している。
C53形式は珍しい3シリンダ式の機関車で、左右はともかく真ん中のシリンダ、
ロッドは常にトラブルを抱えていたと聞く)当時は列車無線などあろうはずもなく、
咄嗟の判断で「えーい、このまま滑り込もぅ。姫路まであと3キロ程や、なまじココ
で止まったらそれこそどエライことになるがな。あと5分足らずや、行ってまえ!」
と姫路駅に滑り込み、停車した途端に大きな火が出た。
 「あのときは生きた心地がせんかった。わずか4、5分がホンマに長かったがな。」
場内信号機通過直前の汽笛は「ポッ、ポッ、ポッ、ポッ、ポッ、ポォー(短音5回、
長音1回)を数回繰返したが、これは「非常事態発生」と言う意味であったそうで、
これを聴いた駅員は数分後に入線して来るであろう列車に対し「牽き(機関車のこと)
はゴーサン(C53形式)か。真ん中から火が出たな。」と判断し、短時間で万全の
体制が取れた。「(ホームに)入ったらもう消火ポンプが待ってたがな。」連結手が
定位置に待機し、停止と同時に機関車と客車を切離す。当時としては最新鋭炭酸ガス
消火器によって火は直ちに消し止められた。
 無線もネットもなかった時代、人々は様々な努力と工夫で意思疎通における不便を
克服して来た。今の時代など、望めば殆どの事象に対応出来、最早「不便」も死語と
なりつつある。
 海軍軍人で機関車乗り。八代目鹿嶋清兵衛と共に我が理想の人物の足元にでも良い。
少しは肖れるよう・・・ムリだろなぁ。

(6.5.26記)



 

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