海軍とジャガイモ

 寒くなってきた。此処数年、秋がだんだんと短くなり、夏からいきなり冬
と言う感じが顕著に成って来たように感じる。これからの季節、鍋料理等と
ともに肉とジャガイモさえあれば兎に角手軽に作れる肉じゃがは有難いもの
であると頓に感じる。
 人類の生活に欠かすことの出来ないイモ類。これは根や地下茎などが肥大
して養分を蓄えた一種の貯蔵器官であることは誰もが知る処である。
 中でもサツマイモ、サトイモ、そしてジャガイモは我々日本人にとっての
三役格ではないかと思うのだ。

 その三役の一つであるジャガイモ、別名を「お助けイモ」、「甲州イモ」
また「清太夫イモ」とも呼ばれるが、これは18世紀後半に起こった天明の
大飢饉の折、当時の甲府代官であった中井清太夫が救荒作物としてその栽培
を奨励していたこともあり、甲州では一人の餓死者も出さなかったと聞く。

 現代では世界中の家庭の食卓に、また高級料理の素材にも欠かせないこの
作物。16世紀に南米から欧州にもたらされたジャガイモは見た目の悪さ、
また種子からの発芽ではなく種芋で増えるという理由から「悪魔の植物」と
して嫌われていた。しかし寒冷で痩せた土地でも良く育ち、しかも生産性の
非常に高いこの澱粉の塊は、次第に人々の生活に浸透していった。
 18世紀半ば、第3代プロイセン王フリードリヒ2世はその栽培を大いに
奨励し、また自らも毎日食していたと言う。現代でもジャガイモと言えば
ドイツ、とはこの逸話による処が大きい。
 決して大袈裟な表現などではなく、星の数ほどもあるジャガイモ料理。その
ひとつであり、日本人なら誰でも大好きな肉じゃが・・・「肉じゃが論争」
と言う言葉をお聞きになった方もあるだろうか?これは旧帝國海軍の鎮守府が
置かれていた呉市と舞鶴市が文字通り「肉じゃが発祥の地」を争っているもの
である。(らしい)
 この肉じゃが、実はシチューの親戚であろうことは容易に想像がつく。

 話は飛ぶ。

 大航海時代、先人たちは富と冒険を求めて欧州、主としてイベリア半島から
世界に船出して行った。その航海中に船乗りたちが最も恐れたもの、それは未だ
見ぬ怪物、嵐、そして壊血病である。
 現代でこそ、その原因は長期に亘るビタミンC不足に起因するものであるとは
誰もが知る処であるが、当時は悪魔の病気と恐れられていた。15世紀後半から
16世紀初頭に掛けて行われたヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓航海などに
おいてはこれにより実に200人近くの船乗りのうち半数以上を失ったと聞く。
 それから200年余りが過ぎた18世紀半ばになりイギリス海軍はある事象を
発見した。粗末な保存食を摂取する一般水兵に比べ、緑黄色野菜、柑橘類、また
ジャガイモ等を定期的に摂取する将校の間には壊血病の発生が極めて少ない、と
言うものである。
 無論のこと20世紀に入るまでにビタミンCの存在は知られていなかったが、
とりあえずも壊血病の発生と食事の因果関係はここに知られることとなった。
 かくしてジャガイモはその恐怖の発生を防止し、しかも貴重な食料として、
あらゆる船の船底にバラストの如く積込まれることになって行った。船乗りに
とってはかくも大切なるものとなったのである。
 ジャガイモのたっぷり入ったシチューなどは海軍食の代表格にまでなったが、
保存の効かないバター、生クリーム等を使用するため停泊中はともかく航海中
は主にカレーシチューが供されていた。それが日本に渡り、あのライスカレー
となって行ったことは(スペースの関係もあり)後の能書きとしたい。
 
 話は戻る。

 創生期の日本海軍はイギリス海軍をその師と仰いだが、もはや現代では伝説の
人物となった東郷平八郎がイギリス留学中にこの話を聞き、是非とも我が海軍に、
との熱意とともに持ち帰ったと聞く。

しかしながら、当時の日本国内において大量のバター、生クリーム、ワイン等が
安定的に供給されるはずもなく、このレシピは頓挫したかのように思えたが・・・
 うん?一寸待て、我が国には大量の砂糖と醤油があるじゃないか。これを使って
みたらどうだろうか?
 最初に書いた、シチューの親戚である肉じゃがの誕生である。東郷が帰国後、
舞鶴鎮守府の初代司令長官として赴任したこともあり、この論争について、片や
舞鶴市の鼻息は荒い。此方呉市は兵学校のお膝元、と言うこともあり、こちらも
負けてはいない。

 論争はともかく、どのような料理にも使える、万能食材。嘗ては「悪魔の植物」
とまで呼ばれたこのジャガイモ、海軍との因縁は深い。

(5.11.23記)

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