令和7年師走に寄せて

 今年も71回目の師走がやって来た。毎年いの一番に思うことは「この一年も速かった
なぁ。」である。若い時は時の流れを感じるのが遅く、歳を重ねるほどに時の経過が速く
なって来るような気がするのは私だけではないだろう。20代各停、30代快速、40代
特急、50代以降は新幹線などと揶揄されるが、これには全く反論の余地はない。若い人
に比べ、我々年寄りは(情報その他の)刺激に対して鈍感になって行くが故だそうである。
 更にこの年齢になって改めて思うことは「今年も大きな事故、怪我、病気もなく無事に
年を越せそうだなぁ。」(まだ数日あるけどねw)との感慨が湧いて来る。
 この「一年を無事に過ごせ、また良き新年を迎えられそう」と言うことに改めて感謝の
念が起こるのだが、はて?誰に対して感謝するのだろうか・・・家族を始め、斯様なヘソ
曲がりのおっさんとお付き合いくださったカメラマン仲間、モデルさん達、職場の人々を
はじめ、その他あらゆる場面でご協力を賜った方々だろう。
 ただチョッと待って頂戴。私(だけではないだろうけど)はこれらの方々だけではなく、
我が心の中に漠然と存在する神仏に対し深い感謝の念がある。まぁ、これは年中思うこと
なのだが師走となるとこの感覚は更に強くなってくるような気がする。
 この拙文を読んでくださる方々の中には「漠然と存在する神仏って一体何なのだ?」と
問われる方もあるかも知れないのだが、実は私には「金剛蔵王大権現」という守り本尊が
存在する。

「三世一体金剛蔵王大権現」(大和吉野金峯山寺蔵王堂)
 ただこの守り本尊だけではなく、ありとあらゆる場所、道具、事象に漠然とした神様が
存在するとの感覚がある。神秘的な山を見ると「あ、この山には神さんゐるな。」とか、
さらに中には撮影の真っ最中にも「写真の神様」などと言うものさえ感じてしまうことが
ある。
 勿論神社仏閣に鎮座される神仏もある。ただ、それとはまた別の次元での神様はどんな
人々の心に厳然と存在するのではないか。「神の対極に悪魔が存在する」と言う一神教の
世界とは全く違う宗教観、というかありとあらゆる所謂「(疫病神、貧乏神などを含めた)
八百万の神様とは人の心の中にある」と言うことに他ならないと勝手に思うのだ。言い古
された「お天道様が見ている。」善行も悪行も、それが巡り巡って必ず自分に帰って来る、
まさに因果応報とは日本人独特の宗教観だろう。
 歳を重ねて来ると、いや(おそらく少数の)若い人であってもその神仏に対し「今年も
無事に過ごせました(漠然とした神様)有難うございます。」と言う気持が自然と湧いて
来る。自然の神、食べ物の神、道具の神、さらに写真の神さん、本当に有難う。
 「神は感謝の対象であって頼む対象ではない。」のだ。

《おまけ》
 だいぶ前の話だが・・・
知り合いのおばちゃん
「アンタ写真やってるん?そのカメラでワタシを撮ってよ。」
ワイ
「あのなぁ、道具っちゅーモンは使ぅたら使うほど持主の魂が宿るねん。その魂の宿った
カメラをアンタの方に向けてもカメラが嫌がってシャッターおりんわ?」
おばちゃん
「何よそれ!?セクハラやないの、訴えてやる!」(ホントにこう言ったw)

(7.12.25記)
 

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