滅びの美学

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の
前の塵に同じ。」

 毎度お馴染み、平家物語の出だしであるが、此れ程万人が認める美しい文体にも拘らず
私はこの物語全体には結構な違和感を感じるのだ。
 「歴史は勝者によって書かれる」とは誰もが知る処であるが、まさに勝者である源氏の
視点で書かれたとしても、これほど平家一門に対し、さりげなく悪意の込められた内容に
困惑を隠せない。
 日本人であるなら何方でも「源義経」の名は一度や二度、耳にされたことがあるのでは
ないか。
 子供の頃の私は聞きかじりの歴史に安易に流され、さほどの知識などあろうはずもなく
(「今もじゃねーか」っちゅーツッ込みはナシね😅)義経を偉大なる戦功を起てながらも
「理由もなく」兄により迫害され、終には藤原泰衡の裏切り?により平泉の地に32年の
生涯を終えた悲劇の若武者として崇め奉ってゐた・・・のだが。
 「判官贔屓」と言う言葉をお聞きになられた方も多いと思う。兄頼朝に追われた義経の
悲哀を如何にも日本人らしく表現した言葉であるが、もし平家の武将が義経と同じような
行動をとってゐれば数多い歴史書にどのような書かれようをされていたのかは想像に難く
ない。そう・・・無駄に歳を重ねると共に私は足利尊氏と源義経が嫌いになって行った。
(まぁ尊氏は子供の頃から大嫌いだったけどね)

 古来から近代に至るまでも戦争と言うものは無差別の殺し合いではない。其処には必ず
「暗黙の了解」と言うものが厳然と存在していた。人の命が一枚の紙より軽かった時代で
あっても非戦闘員に対しては刃を向けない、弓を引かないことも了解のひとつであった。
其れを全く無視し「勝つためには手段など選ばない」という義経の行動には強烈な違和感
を感じずにゐられないのだ。
 三草山の合戦では百姓の住まいに火を放って無辜の民を殺戮し生活を奪い、一の谷では
休戦協定を破って西木戸(現在の山陽電鉄須磨浦公園駅辺り)から全く予期しない攻撃を
受けた平家は潰走。
(実はこの辺り、後白河院の策略に嵌められたことは吾妻鏡に詳しい)
 こんなものは奇襲戦法でもなんでもない、騙し討ちでしかない。屋島においても大軍に
偽装するため山林や民家を焼き払い、さらに壇ノ浦海戦では非戦闘員である漕ぎ手に弓を
引いている。確かに船足を止めるのには有効であろう。平家側にしてもまさかこのような
攻撃をうけるとは考えてもゐなかったことだろう。(まぁ敗因は此れだけではないのだが)
あの第六天魔王との異名を取る織田信長でさえ此処までの事はやっていない。(アノ叡山
焼討ちはまた違うよ)このような彼の性根が透けて見えるこの人物が私は大嫌いなのだ。

 幼い安徳帝に「何処へ行くのか?」と問われ「波の下にも都がございます。」と答えた
二位の尼、二領の鎧を身に着け「もはや見るべき程の事をば見つ。」碇を背負い入水した
平知盛、「おごれる人も久しからず」栄枯盛衰はこの世の常。終わりのない始まりはなく

壇ノ浦の碇知盛 後方には関門橋
別れのない出会いもない。形あるものは必ず消滅することは誰でも理解してゐよう。
 人の心も形のあるものも、さらに自然でさえも全ては移ろい行き、永遠ではないと言う
心根が日本人にあるからこそ、時には自己犠牲を以てしても他人との和を保つことを最も
大切にし、其処に一期一会と言う精神が成り立ってゐる。

 今年も「さっぽろ雪まつり」が無事に開催された。「野戦築城訓練」の名目で陸自北部
方面隊の協力もあり、毎年素晴らしい雪像製作がされてゐる。もう10数年前ものこと、
私もこれらの素晴らしい芸術に感嘆した一人だったが、中に大層興味深い話があった。

 直接聞いたことではないのだが、会場に居合わせたある外国人から「いくら素晴らしい
像とは言っても春になれば間違いなく溶けて無くなってしまうのに、なんで日本人は此処
まで精魂込めて造るのか?」との疑問があったそうなのだが、私はこれを聞いて、はたと
膝を打ってしまった。
 西洋の文明は建築物も彫刻も(自然に強い)石、煉瓦などの素材を以て其処に永遠の姿
を求める。しかし我が国では「たとえ美しく気高くあるものであっても形あるものは必ず
消滅する」からこその儚さ、潔さが垣間見える。

 花の季節がやって来た。古代の「花」と言えば「梅」であったが、中世、近代から現代
のそれは桜へと緩やかに変化して来た。これは「梅の雅」より「桜の潔さ」が滅びの美学
と共に日本人には受け容れられた証なのではないか?・・・と静かに感慨に耽るこの季節
でもある。

(8.3.30記)
 
 

 

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